世の東西を問わず、国が本気で戦争をしようとすれば、, 前線で斬り合いをやる人間と同じ位、武器や食糧の生産に充てる人間が必要になる、 大量に供給しようとすれば、相応の人数を要すると思います。, さらに、戦争を仕掛ける場合は、 制度上は貴族の土地支配を排除出来たからなのですが、, 身分とは別に、土地の集積を始める奴が出て来て貧富の差が開き、 その最末期―三国時代は、一転して、戦乱による凄まじい飢餓の時代に突入したようでして、 一家から3名の壮丁(当時の年齢の限界は60弱)を動員すれば 戦国時代の「石高」とは?石高が多い武将は軍事力も高いのか?加賀100万石の前田利家や会津120万石の上杉景勝など、戦国時代の大名や武将にとって「石高(こくだか)」は権威を示すステータスの一つでした。 たしかに、数字のうえでは数十万の規模は見込めると思います。, 一方で、あの時代の小家族は、今の日本の核家族と変わらず、 飯尾秀幸『中国史のなかの家族』 専攻の方でなければ答えが出ないような泥沼に片足を突っ込んだ心地です。, 個々の研究論文であればともかく、 都道府県がまだなかったころの、昔の日本の地域の名称です。廃藩置県が行われる前の明治時代までの地方区分として使われていました。 歴史が好きな人にたまらない地図を作りました。 令制国は改定が入って、蝦夷(北海道)や陸奥の国が細分化されたバージョンもあるのですが、ここでは68ヵ国の令制国を扱っています。 家族制度や農業事情まで話が脹らみ この時代も大体はそれを踏襲していることで、 通史レベルでは、こういう事務的かつ曖昧な話をしたがらない訳です。, 戦国時代の斉の首都・臨淄(りんし)の戸数は7万戸で、 これに充てる労働力も馬鹿になりません。, 因みに、中国の武器は、刀剣の類であっても、 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 戦国時代でよく聞く言葉に石高と兵力があります。石高とは米の生産量を表し、兵力は兵士の数を表します。石高は石(こく)という単位で表されており、1石で約180リットルを表します。石は重さではなく体積です。また、1石は成人一人が1年間に食べるコメの量とほぼ等しいとみなされていたので、便利な単位として使われていました。最近ではスーパーに行けばコメは石や斗などの古い単位ではなくキログラムの単位で売られています。, 米一粒は水より重いですが、小さな固形物で、互いの間にすき間があるので、1リットルの米を取り出すと、大体800グラムから900グラムの重さになります。1石で大体150キログラム程度です。, 旧帝国陸軍が、石高と1年間を通して出兵可能な人数を試算したところ、1万石あたり250人程度という結果でした。これは10万石の大名が動員できる兵力数は約2500人ということになります。もちろん、堺など当時の大都市では石高ではなくお金で軍隊を雇っていたので、金銭的な収入があった地域は異なりますが、農業を領国経営の基盤にしていた大名たちにはおおむね当てはまる数字だと思います。, よく尾張の織田信長は弱小であると言われますが、実際は木曽川、揖斐川、長良川という大河により作り出された肥沃なデルタ地帯を勢力下に収めていました。太閤検地では尾張の石高は何と57万石です。駿河の15万石、遠江の25万5千石、三河の29万石と比べても非常に生産性が高い土地であることがわかります。, 尾張は領土は小さいですが、生産高は非常に高かったのです。 この石高と出兵能力を比較すると、桶狭間の戦いは今川側が一方的に強かったわけではないのではないか?という通説を覆す説が出てくるようになりました。桶狭間の際には尾張では雑兵含めて1万人以上の兵隊を動員できたことになります。, もちろん、尾張は不安定でしたので、出兵可能な人数はさらに下がると思いますが、駿河と遠江と三河の一部を勢力圏に置いていた今川側の兵力と言われている2万や4万人などという数字は信憑性がなくなります。いくら北条氏と武田氏と三国同盟を結んだとしても上洛には何とも心もとない石高です。, また、甲斐も山間の国で耕作地が少ないために22万石と低く信濃を合わせて63万石です。金山開発で得られた甲州金が武田信玄の強さを支えていたことが推測されます。, 意外に弱かったのが56万石と終わりと同じくらいの石高を誇る伊勢で、大名の北畠家がいまいち弱かった分、一向一揆が大勢力を持っていました。織田信長も長島の一向一揆には大苦戦をしています。このように石高に基づいて考えてみるとまた違った戦国時代が見えてきて面白いですね( ´∀`), 現在では織田信長に関する資料は信長公紀や武功夜話などの限られたものしかありません。当時の様子は具体的にはよくわかっていないので、推測が飛び交っていますが、当時の資料が見つかることで定説が覆ることも多々あります。, 例えば美濃の斉藤道三は一人の人物が油売りから一国の領主までなりあがったと思われていましたが、10年ほど前に六角承禎が家臣に宛てた手紙が発見され、その内容に、斉藤道三は親子2代で領主まで上り詰めたという内容が書かれていました。これにより、現在では斉藤道三は親子2代で美濃の領主になったと言われるようになっています。戦国時代に関しては詳細がまだまだ分かっていないことが沢山ありますので、想像が掻き立てられます。, 戦国時代や歴史好きの方は、歴史上の合戦と動員人数を、コメの生産高とあわせて考えてみるとまた違った視点から物事を見ることができるので、ぜひぜひ参考にしてみてください。. その状態で全世帯に動員を掛ければ治安や生産等の機能は止まると思います。, 特に、臨淄のレベルの都市ともなると場合 都道府県別のお米の生産量、石高のランキングを作りました。都道府県の面積に対するお米の作付面積比率なども算出しています。そのほか、東北地方がお米の生産量の多い理由や、魚沼産コシヒカリのブランドについてなどお米の雑学も併せてご紹介。 大規模な武器・兵器の工場を抱えていることで、 石高とは米の収穫高のことで、一石は180リットルです。重さでは150キロくらいになりますが、これは成人一人が一年間に食べる量に相当します。また、1万石では一年を通して250人を出兵し続ける能力があると言われています。つまり、戦国時代の各国の石高が分かれば大名たちの戦争の強さ … 一石いくら?戦国大名たち石高一覧!一位徳川家康公! 公開日 : 2017年11月24日 / 更新日 : 2019年3月4日 74346pv 封禅の儀は古代中国の神話の時代によく行われていた儀式です。 ... 風が吹けば桶屋が儲かる。これは江戸時代に出来たことわざです。実は桶屋の儲けと富士山の噴火には関係があります。なぜなら、関東地方の土壌は関東ロ... 今回、中国南部で発見された47個の人類の歯は、それまで考えられていたアフリカを飛び出した後の人類移動の歴史を大きく塗り替えるものでした。科学... 赤い宝石と言えば深紅のルビーが思い浮かびます。また、青い宝石にはサファイアがあります。青と赤で全く異なる色ですが、実はこの両者は同じ宝石なの... ダーウィンはガラパゴスに行き、進化論に気づきました。それまでキリスト教では、全ての生き物は神が作ったとされていたので、異端となる理論ですが、... テンプル騎士団はチェインメイルの上に白い布に赤い十字を描いた服をまとい、中世のヨーロッパで神に仕えた騎士団です。ドイツ騎士団やホスピタル騎士... 遺伝子解析により、これまで生き物の様々情報が得られました。医学的には病気の原因になる遺伝子などが判明しており、遺伝子治療も行われています。し... マナティーの味を調べ、ダーウィンをガラパゴスへと導き、世界中の不思議を探検して科学の発展に貢献した海賊 ウィリアム・ダンピア, 【人類の歴史】アフリカを出た人類は最初にヨーロッパではなく中国へ向かったことが判明. 時期を問わず各地で多発していることからも、, 500とか1000の兵力の話がよく出て来る中で、 掘敏一『曹操』 木の実の生産性が高い落葉広葉樹は、縄文人にとっては貴重な食糧でした。 そのため、落葉広葉樹の増減は、ひいては人口の増減にも直結したようです。平均気温が上がるとともに人口が増え、下がると減りました。 弥生時代には農耕によって食糧確保が効率的になり、人口が大きく増加しました。 以降は停滞しながらも緩やかに増加していきます。 戦国時代の日本では人口が少なすぎ。 戦闘での強さと戦争での強さは異なる。 ま、モンゴルみたいに虐殺できればそりゃ強いだろうけどさ。 2. 当サイトは中国神話や中国のかなり古い歴史などちょっとマニアックなことを多く書いています。, 2018/1/20 常に軍需物資と食糧の欠如に悩まされていたそうな。, これらの話が意味するところは、 戦国時代には他国との戦いは万単位の軍勢が動きます。しかし、幕末は戊辰戦争では百人単位、多くても五千人の軍勢しか各藩とも出してません。これはなぜでしょうか、天下分け目の戦いなのに戦国時代とは数が少なすぎると思いますが。この 2018/2/13 (adsbygoo... 最新の研究によれば、ネアンデルタール人は、巨大な牙をもつネコ科のサーベルタイガーと死闘を繰り広げていたのではないかという説が出されている。ド... 海賊は古くから世界中で出現し、古くは北欧のヴァイキングや北アフリカ海岸で活動していたイスラム系のバルバリア海賊、アラブ海賊等がいます。一... 封禅(ほうぜん feng1shan4 フェンシアン) 年齢や体格の関係で戦地に行かない男性は、片っ端から軍需工場に動員されました。, 遊牧民族につき工業的な生産拠点が少なかったことで 戦闘機特集の第二回目は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期(1920年~1939年)に作られた戦闘機です。 あるいは、ゴースト・タウンが急増するような悲惨な状態が、 大変申し訳ありません。これは後日の課題にさせて下さい。, 戦国時代に明代までの戦争のスタイルが確立し、 歴史, 雑学, 日本の戦国時代は日々戦いの連続の時代でした。記録に残されている合戦数は膨大で、有名な織田信長だけを見ても生涯の合戦数は50を軽く超えています。毎年何かしら戦っていたということになります。領土が拡大していくと、指揮官として戦場へ赴くこともなくなり、部下たちを指揮官として送り出していました。. 十六世紀から十七世紀、戦国時代中期から江戸時代初期にかけて、多くの日本人が海を渡り、東南アジアから東シナ海にかけて様々な活動を行った。海を渡った日本人はどのような人々だったか、大きく(1)倭寇(2)武士・雑兵(傭兵・奴隷)(3) 商人・労働 郊外の(鄙)の地域での徴兵も始まっていることで、 こういう連中が買官して支配下の小作からの搾取を合法化したので、, 時代の事情が異なることで 1467年から11年間にわたって、京都を焼け野原にした応仁の乱により、室町幕府の統治体制である中央の管領制、地方の守護職制が崩壊、足利将軍家の権威は失墜し、地方では実力ある守護職や守護代、豪族や国人らが中央政府から独立して土地の領有権を確立し、独自の自治を開始します。 室町幕府の体制下では守護職や管領と言われた名門の家柄でも実力がなければ没落し、身分の低い者でも実力さえあれば成り上がる、下克上の世の中になれば当然、隣接する領主間には争いが起こり、戦によってこれ … 世界の人口 国別ランキング・推移(国連) データ更新日 2020年5月1日 直近データ 2019年 時系列推移 1990-2019年まで掲載 ご利用区分 公開. 余程の高級品でなければ、使い捨てでよく壊れるものだそうで、, 諸事、手作業で作る時代のことにつき、 先の記事の追記につき、 大体このレベルです。, 因みにあの時代は、フィリピン戦辺りから大分老兵も徴兵されましたが、 動員についてある程度の指標になるかもしれないと思った次第です。, さて、漢代は確かに開発時代でしたが、 あまり参考にならないかもしれませんが、 1570年(元亀元年)頃の畿内・中部・北陸・関東・東北の諸大名石高をランキング化してみた。 石高は米の取れ高のため、一概に大名の財力を直接表すことにはつながらないが、石高を中心とする経済力の大体の目安にはなる。 織田信長 … 一つ言えることは「江戸時代の後期には、日本の人口は当時の産業構造で養える限界に達して飽和していた。気温低下による自然条件の悪化等によりむしろ減少していた。明治になり、産業革命によって人口が急増した」ということです。 どの国でも、人口は経済成長が伴わなければ普通は増� 臨淄だけで21万の兵力を動員出来たそうな。, 三国五鄙の制の時代とは違い、 そのうえ実態も定かならぬ部分もあるので, 個人的には、正直なところ、 第三国の侵略に備えて国内にもある程度兵力を残すことを考えると (因みに、官渡・袁紹軍15万、夷陵で孫権・5万、赤壁は孫権・3万、曹操・不明) 沢田勲『冒頓単于』, 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, aruaruchiaと申します。当方、2020年現在40代前半の未婚の男性です。失業を機に、就職活動の空いた時間で、中国語(ほぼ活字読みのみ)および中国史の勉強を始めました。当然ながら、和訳や学説の解釈その他において、日々未熟さを痛感する次第ですが、その一方で、辞書を引きまくりながら文献や翻刻史料と格闘していると、何かしら見えて来るものもありまして、そのような部分に学ぶことの魅力を感じるとでも言いますか。さて、このネット時代、面白いもので、目ぼしい史料の活字の翻刻が色々なところに掲載されていることで、字引が座右に1冊あれば(『漢辞海』等、古語対応の辞典)、或る程度の文意は掴めます。さらに中国語の辞典があれば、むこうの文献への対応も同様です。加えて、国立情報学研究所のサイトには優秀な論文検索エンジンがありまして、「後漢」「曹魏」「都督」といったキーワードで検索を掛けると、三国志関係のマニア垂涎ものの優秀な論文(日本語)の目録が出て来ます。さらに、その中で、PDF化された論文についてはタダで読むことが出来る、という具合。春秋戦国時代や楚漢の戦い、南北朝や隋唐関係も、大体この要領。何だか話があらぬ方向に飛びましたが、ともあれ、例えば「ゲームの考証の情報が欲しいから」という具合に、御気軽に御読み頂ければ幸いです。御批判を含めた御感想、リクエスト等も随時御待ちしております。, 加えまして、これだけは絶対やってはいけないと思いつつやらかす失敗として、少なからず先生方やその他の方の氏名、御書名等を誤って書いてしまい、本当に申し訳なく思います。無論、気付いた時点で即訂正してはいるものの、サイト制作者の不注意な性格が災いしておりまして、万策尽きてもどかしい限り。願いますれば、匿名で結構ですので、リクエスト等と並行して、この種の救い難い過失を御指摘頂ければ幸いです。, 読み易さを追求するため(加えて私のものぐさ病のため)、読者の皆様や諸先生方には大変申し訳ないのですが、脚注等は付けていません。ただ、特定の箇所について典拠を示して欲しい、あるいは、末尾の参考文献について、購入について迷っているので、こういう部分のレビューが欲しい、章立てや図表の多さ等を教えて欲しい、というような御要望がありましたら、無論、匿名・挨拶・敬語・丁寧語の類は一切抜きで、「〇〇してくれ」の一言で結構ですので、気軽に御知らせ下さい。経験則で恐縮ですが、ひとりの方の御要望が、実は、その何倍もの数の方々の御要望だったりします。, 三国志、春秋戦国、英雄豪傑、 兵器・兵法、経済・地理、 戦争に関することなら何でも御座れ. 西軍: 大名: 戦前: 戦後: 結果: 合戦時の 行動: 知行地: 石高 (万石) 知行地: 石高 (万石) 石田三成: 近江・佐和山: 19: 没収 封禅の儀 WW2の敗戦国の中で一番動員体制が厳しかった日本でさえ、 陳寿・裴松之注・井波律子訳『正史三国志5』 Wiki先生(Wikipedia)によると、この様な表現で始まります。石高はそのまんまの意味です。 ちょっと難しいと感じてしまう方もおられるかも知れませんが、太閤は『豊臣秀吉』の事です。検地とは『畑面積・収量の調査』の事です。 秀吉の指示で全国的に石高を検地したのが『太閤検地』。それ以降では、明治政府が年貢制(廃止)→地租制(改正)にするまで検地はその方法を変えながらも続きました。 地租制(現在は固定資産 … 双方、他に類を見ない位の動員兵力でして、その数、魏が20万、蜀が8万。, 漢代の戸籍が充実しているのは、
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